続パスカルの葦笛のブログ

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ブルックナー生誕200年最大の収穫はスタインバーグ再評価

今年はブルックナー生誕200年記念、最大の収穫はスタインバーグ指揮ピッツバーグ交響楽団の4番の録音(1956・4・19)の演奏だろう。旧聞に属するネタだが、何故これまで人の噂にのらなかったのであろう。余人には求められない新しい響きであった。その新しさが50年も寝かされていたのだ。いい加減熟成され過ぎて腐ってしまいそうだが、一層の輝きを放っている。手垢が付いていなかったので、手練手管の名匠巨匠に揉まれても異彩を放っている。これぞ本物です。


安藤鶴夫が四谷若葉の鯛焼きが優れていると言うまで、場末の鯛焼き屋として焼き続けていた。「あなた様を待っていました」と主人が安藤鶴夫にいった。ようやく世間の相場と鯛焼きの価値が一致した瞬間だった。それ以来東京の鯛焼き屋の名店ということになった。


そうである。世間の相場と物の価値の一致とを揃えねばならないわけである。今年ようやくウイリアム・スタインバーグ(1899-1978)という指揮者がブルックナー指揮者という価値と一致したのだ。恐ろしい位ブルックナーの楽譜の蘊蓄を議論した演奏をする。今まで彼を軽く見ていたきらいがあった。


今、井伏鱒二の『珍品堂主人』を読んでいるが、難しい小説である。何故文学全集に掲載されないのかと思っていたが、短編ではなく一大長編小説なのだ。内容は骨董小説で、モデルの秦秀雄が登場して骨董の蘊蓄を語るのである。リアルには北大路魯山人の星ヶ岡茶寮を舞台にして、稀代の料理等の天才魯山人と支配人秦秀雄の確執が描かれる。明治大学教授の小林秀雄も登場して、小説の一輪の花を挿す。鈴木瑞穂が登場したり、トタン屋根で作陶する荒川豊蔵の一途な陶芸家姿があったりする。秦から本物の瀬戸黒の茶碗の破片を与えられて喜ぶ様がある。全編に平安時代の春日大社の吊り灯篭を秦が発見した経緯が流れ、平安と鎌倉の違いが語られる。これを読むと骨董の真贋が解る。が、難し過ぎる。道理で文学全集から落とされるわけだ。井伏鱒二は骨董が分かる人だから、真贋まで伝えて、難しくなる。鉄製が古く銅製が新しい。秦秀雄は建築史の変化を灯篭が反映していて、それが時代の古さの見極めだという。そういう話が満載なのが『珍品堂主人』。


魯山人は怪物だ。鮎は棲み分けして生きていて、自分の領域に入る鮎を攻撃するのだ。それで攻撃されて負けたのだ。相手が悪かったのだ、と小林秀雄が秦秀雄を慰める。頭の良い人間は鮎の習性を利用して、もう一匹の鮎を見せて逆上した鮎を引っかけて釣るのだ、これは釣好きの井伏鱒二の意見らしい。稀代の美の好敵手魯山人と秦秀雄の美の対決試合を描いた意欲作だった。仮名にしたのが失敗作の原因だ。実名小説にしていたら大うけしていた。脇役の有名人を配して、精彩を放ったはずだ。当時は魯山人も秦秀雄も無名人だった。50年経過して美の巨人と理解された。それで美の狩人たちの神話として読むと『珍品堂主人』は一層味わい深く、今日理解されるのだろう。


スタインバーグのブルックナー交響曲の演奏史


(1)交響曲4番ピッツバーグ交響楽団(1956・4・19)(C P-8352)
(2)交響曲5番バイエルン放送交響楽団(1978・1・12)(LB-0014)
(3)交響曲6番ボストン交響楽団(1970・1・19)(TWCL-3004)
(4)交響曲7番ピッツバーグ交響楽団(1968・4)(OG 0028948644421)
(5)交響曲8番ボストン交響楽団(1962・1・9) (ICAD5071 DVD)
(6)交響曲8番ボストン交響楽団(1972・2)(BSO自主製作盤)
(7)交響曲8番シカゴ交響楽団(1968・11・28-29)(m=M)


この他にスタインバーグ指揮ピッツバーグ交響楽団のブルックナー交響曲4番のリハーサル映像がユーチューブで公開されている。


スタインバーグの4番は最初はモノラルで発売されたが、まもなくステレオ時代に突入して
録音に難ありということになったようだ。モノラルの名盤がステレオの凡盤に淘汰されたことはあった。疑似ステレオ録音という説もあるが、完全ステレオ録音からすると劣ることは明白だ。1960年代に入り、録音状態で役割を果たした演奏となった。名演の評判が立つ以前に音が悪いということで退場させられてしまった。


2023年に国内で輸入盤が発売されたのが『ウィリアム・スタインバーグ キャピトル・レコーディングス』20枚の復刻盤である。11枚目がブルックナーの4番で、55年振りに陽の目を見た。55年間廃盤であったのだろう。


ステレオ盤時代のボストン交響楽団で4番を再録音していたら、世評は変わっていたのだろうが、スタインバーグにはそういう意欲は無かった。極めて意欲的でユニークな解釈を4番で問い、世評から拒否されたかたちになったので、二度と評価を問うことはなかったようだ。


ボストン交響楽団で6番をやっていて、4番をやっていない気持ちが理解出来ない。それほど意欲旺盛で、拒否反応が痛手だったに違いない。


最晩年に、ドイツのミユンヘンで、バイエルン放送交響楽団で5番を演奏して評判を呼ばなかったのも不思議だ。大評判となり祖国ドイツでブルックナー指揮者として認められそうだが、そうはならなかった。8ケ月後に死んだのは不評の痛手でが激しかったからだろう。何で遠路はるばるミュンヘンくんだりまでやって来た意味がない。5番の指揮でブルックナー指揮者と呼ばれる自信があったのだ。あの難曲を世に問う意味がない。挫折感で早死にしたと言うしかない。


そうではなくて、臓器の障害激しく旅行の出来る体ではなかったが、ブルックナーの指揮がしたくドイツ旅行を敢行し、衰弱死したようである。その成果は二の次で、成功しようが不成功であろうが、もうどうでもよかった。1956年の4番は長年の研鑽を積んだ研究発表であり、1978年の5番の演奏まで、ブルックナーの研究と演奏は20年間継続されたわけである。只報われること少なかっただけなのだ。4番の演奏はこのまま埋もれるのを惜しむ。各楽章詳細を見ていきたいと思う。


スタインバーグには安藤鶴夫がいなかったのだ。アメリカ中にブルックナーの名指揮者だと言ってくれる人がいなかった。ので、ブルックナー指揮者になりそこねた。安藤鶴夫なかりせば、四谷若葉は店主の死で廃業していたのだろう。命運が別れた。