続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

バイロイト音楽祭を訪れた日本人(5)若山弦蔵

4若山弦蔵(1932-2021)
ワーグナーを娯楽に変えた人だった。
それ以前は頭で聞いたり、知的アクセサリーであったりしたが、この人から単純に楽しめばいいじゃないかと聴衆に革命をもたらした。ワーグナーが楽しいなんて、考えられなかった。そんな面白いものだったのだろうか。難解な内容だが、台本も無視して、聞いて見て楽しむだけでいい。それで結構楽しめる、ということを知らしめた。


ロッシーニやワーグナーは序曲だけという時代が長く続いた。ようやくワーグナーは序曲だけ楽しむ時代から、本体のオペラに入って楽しむ時代を迎えた。


若山弦蔵といえば、日本人なら誰でも知っている有名な声優であり、ラジオのDJだ。去年なんと88歳まで存命であった。


1979年、若山弦蔵は初めてバイロイト音楽祭を訪れた。それまでは熱れつなワーグナー・フアンであったことは知る由もなかった。ワーグナーの大作「ニーベルングの指環」がお気に入りで、欠かさず見に行っていた。そのことが噂になり、知られるようになって、NHKFMの年末のバイロイト特集を担当するようになった。


日本人が海外旅行をし、海外の音楽祭を訪れる動向と呼応していたわけである。そういう大衆の動向の先駆けであった。生活が豊かになり、海外旅行が出来て、さらにある目的に特化して海外旅行をするようになった。


バイロイト音楽祭はもう一部の限られた人々の特権ではなく、大衆の娯楽になったのである。ワーグナーを勉強して、ワーグナーと対決する場所ではなくなった。


1979年「パルシファル」指揮シュタイン。
     「ニーベルングの指環」指揮ブーレーズ。
     「ローエングリン」指揮デ・ワールト。
     「さまよえるオランダ人」指揮デービス・ラッセル。


若山弦蔵が選んだ演目はもちろん「ニーベルングの指環」で、たぶん音楽之友社の主催した団体旅行パックだったのだろう。それに参加しなければチケットの入手すら困難なものだ。ブーレーズの指揮は1976年以来のもので、若山源蔵はこれが見たかった。ワーグナーのフランス化と叫ばれた話題作で、ローラン・バルトも参加した。舞台は社会劇で、政治音痴のバルトは批評興味を失った。ショルティのファンタスチックなリングを見たら、ワーグナー論が生まれたわけだ。


1983年「ニーベルングの指環」指揮ショルティ。


例のバイロイト百年記念版の演出であった。ところで丸山真男と若山弦蔵が参加していたわけだ。二人とも音楽之友社の団体旅行の参加だったら、笑えるね。(お互いが相手無視。)


1984年「ニーベルングの指環」指揮シュタイン。


ショルティは余りのバカバカしい演出に呆れて、一回で降りた。ピンチヒッターが老練なワーグナー指揮者シュタインとなった。


1985年「ニーベルングの指環」指揮シュナイダー。
     「タンホイザー」指揮シノポリ。


この年は若山弦蔵はシノポリ指揮の「タンホイザー」も観劇したらしい。リングの指揮者シュナイダーは明白に穴埋め要員で、誰か有名指揮者に直前でキャンセルされたのが分かる。クレンペラーがクーベリックにメトロポリタンに行くなと助言しているから、ショルティの助言が某氏に入って後任が決まらなかった可能性はある。


1988年「ニーベルングの指環」指揮バレンボイム。
1991年「ニーベルングの指環」指揮バレンボイム。
1992年「ニーベルングの指環」指揮バレンボイム。
1994年「ニーベルングの指環」指揮レバイン。
2000年「ニーベルングの指環」指揮シノポリ。
2001年「ニーベルングの指環」指揮アダム・フィッシャー。


シノポリ(1946-2001・4・20)は、この年4月20日急死したので、穴埋めにアダム・フィッシャーが選ばれた。NHKFMの放送を若山弦蔵が何時までやっていたか不明なので、ここで省略したい。


(付記)
2008年、若山弦蔵とバイロイトのホテルで会った人のブログに、若山氏は翌朝早くツアーの出発で立ち去ったとある。75歳でも元気に観劇していたわけですね。