2014・11・14スペインのガリシア交響楽団で、息子ポリーニ指揮でマウリッツオ・ポリーニのピアノでベートーベンのピアノ協奏曲5番『皇帝』がユーチューブで配信されている。ポリーニ72歳、最新の現状報告ではあるまいか。もうすっかり老人だ。今年は生誕80歳祝賀でCDなども出ているが、回顧的なものだ。 ということで、これが一番最近のポリーニの現状報告らしい。これがとても面白い代物になっている。 一番シ…
町山のカフカ文学はユダヤ人の被害妄想癖なのだという指摘が凄い。変身願望はそこから逃げたいという願望である。絶望名言の人は、カフカは人間が芋虫に変身して会社や学校に行って嫌な仕事をさせられることを拒否する口実の変身願望なのだという指摘と共通する。 町山はポランスキーは何処に行っても嫌われる性癖(少女愛)を持っていて、これとユダヤ人の何処でも嫌われるという被害妄想が重なり、その二重苦を表しているとい…
第二楽章。 97小節のテインパニで注目されるのが、ここの演奏の解釈が、9番フィナーレのテインパニのリタルランドの終わり方は余りにも有名なのだが、その解釈の原型がここにあった。という指摘である。 3つ目の16分音の連符の最後にアクセントが置かれ、4つ目にリタルランドが掛けられる。これは正に第九のフィナーレのリタルランドと同じなのだ。 画面はフルートの記載だが、テインパニだと見られたい。 938小節…
聞くと見るとでは大違いとはこのことだ。エッシェンバッハのベートーベンはほぼ原曲通りの二管編であった。バイオリンも5プルトで編成としては小型だろう。 多分ユロフスキ指揮ベルリン放送交響楽団のマーラー版は編成は大編成であったのだろう。 これではマーラー版とは言えないかも知れない。 だだし、エッシェンバッハのインタビューにあったように、全楽章アタッカで繋げたと言っているが、これはマーラー版のアイデアで…
このエロイカは、全集版のエロイカ(1940・11・11)のスタジオ録音ではなく、1942・3・5の録音である。 この頃の録音はスタジオ録音だからレコード録音のために素晴らしい音で録音されているかというと、必ずしもそうではないのが不思議なところである。 当時はライブ録音に失敗したために、数か月後改めてスタジオ録音で取り直した。このエロイカは後にSPレコードで発売された。音質と内容共に万全を期したも…
ドビッシーが海の作曲家だといえば、リヒアルト・シュトラウスは山の作曲家だろう。もう一つ、この二人は葛飾北斎の版画に基ずく音楽を作曲している。ドビッッシーの交響詩『海』だ。品川沖からの富士山をえがいた。リヒアルト・シュトラウスは皇紀2600年祝典序曲で、別名交響詩『赤富士』だ。 近衛秀麿は皇紀2600年記念に、祝典音楽をリヒアルト・シュトラウスに依頼するのであるが、お公家さんは富士山というと噴火富…
フルトベングラーの戦後復帰の初日が5月27日で大いに感動してしまってから、実は初日は2日前の5月25日だった。伝説に包まれて感激のバイアスを増幅して反応したら、虚実だったと知らされた。あの感激はどうしてくれるのだ。騙されて感動したのか。 今アメリカではワシントン・ポストもニューヨーク・タイムズでも平気で嘘をつくと、メディアへの不信が最高度に達している。50年日本は欧米に遅れている、早く欧米のメデ…
リムスキ=コルザコフの『シェヘラザーッド』は基本的にはストコフスキーの演奏がリーディング・ケースになっているのであるが、ルイージはその影響は全くなかった。 第三楽章の「若き王子と若き王女」で、ようやく強調される主題が浮上してきた。 126小節のバイオリンの2つの8分音符と付点8分音符にかなりデフォルメされたリタルランドが掛けられた。それは128小節でも反復された。 これからこの音型はデフォルメさ…
高木卓(1907-1974)はワーグナー学者の第一世代で、戦前戦後のワーグナー物の第一人者であった。ワーグナーの歌劇台本や評論や小説の翻訳を手掛けた。 トスカニーニやフルトベングラーですら、ワーグナーの序曲で演奏会を開いて、これを是としていたわけである。長い間ワーグナーの理解は欧米ですら序曲で代行されていた。今から考えると笑止千万のことである。 藤原歌劇団があって本格的歌劇団の二期会がある。本場…
ニューヨーク・タイムズの音楽記者ハラルド・ショーンバーグは小型録音機で演奏会を録音すると、ホテルに走り戻って録音を反復して音楽批評を書くのだそうだ。印象批評を脱して客観批評を確立した先駆者の種明かしである。(これは違法録音。) その点はリスナーは個人で楽しむ分は許されるわけだ。第一楽章のルイージのユニークな解釈は鉛筆チェックでは敵わなかった。録音のお世話になりました。 186小節は古今無類のユニ…
多分ゲルギエフの罷免の代行がラハフ・シャニなのだろう。そういう意味では極めて今日的なニュース的な演奏会だ。場所がルーマニアときているから、20日後にウクライナの戦火に見舞われるとは思わない。 大変面白いのはオランダのオーケストラで、メンゲルベルクのアーテイキュレーション(色付け)は今日でも通用するというわけで、クラリネットの序奏はまったくメンゲルベルクの色付けが生かされていた。第四楽章のメンゲル…
ワーグナーの『ジークフリード牧歌』が、フリードリッヒ・ニーチェの命名であることは余り知られていない。 1 ジークフリード牧歌Siegfried-Pastoral.(ワーグナーの命名) 2 ジークフリード牧歌Siegfried-Idyll.(ニーチェの命名) 牧歌(パストラール)は古代ギリシャ以来の若い男女の恋愛劇を起源として一貫して西欧文学に現れた。大岡昇平には西欧文学に現れたパストラール形式の…
この人は何故VPOに持てるのか不思議でならない。ワーグナーの『指環』など噴飯ものだろうが、どういう意味で重用されるのか不思議でならない。 さて、面白いのは東西で、モーツアルト嫌いの貴族で、ウィーンで観劇日記を残していて演目が貴重なモーツアルト資料になっているのだが、大名で歌舞伎の膨大な観劇日記を付けている人がいる。ベートーベンと葛飾北斎が、ウィーンと江戸の東西で頻繁に引っ越しを繰り返している。天…
83歳の巨匠ヤノフスキは増々ロマン主義と円熟を増している。フルトベングラーの衣鉢を継ぐことをもはや隠さないのである。堂々とその影響を告白した名演だ。シューベルトの交響曲8番はそんな名演であった。 第一楽章。 それは先ず566小節のテンパニに現れた。 新全集版では566-567小節はトレモロではなくて、2分音符4つということになった。 アバドの新全集版、フルトベングラー指揮ベルリン・フィル1942…
NHKFMのクラシック・カフェで、沼尻竜典指揮日本センチュリー交響楽団で、メンデルスゾーン交響曲3番スコットランドの放送があった。いわばクラシック音楽の選ばれし名曲中の名曲、名演奏中の名演奏といったものをNHKの権威を賭けて紹介する番組でる。 安易に選んでノルマで消化するたれ流し番組ではない。 そういう番組で日本人の演奏の紹介は珍しい。玄人筋で評判になり、世界の水準の中で揉まれても抜きんでた人語…
1940年3月5日演奏のエロイカは、ターラの発掘調査で陽の目を見た未発表録音と言われている。だが戦後アメリカのキャピトル・レコードからLPで発売されていたらしい。 テレフンケンの音源だがアメリカのキャピトル・レコードから発売されたものの印刷ラベルである。long piayの文字があり、片面に1,2楽章が収められている。どうみても戦後のLPレコード仕様だ。ユーチューブにあげられたもので、ご丁寧にラ…
メンゲルベルクの第九フィナーレの終結のリタルランドだが、メンゲルベルク愛好家でも意外に拒否反応が強いらしい。人は好みだから、好き嫌いは自由ということに尽きる。 私はメンゲルベルクの芸術観の最高峰の結論だと思う。その判定基準は、メニーイン指揮ワルソビアによる全集で、やはり第九フィナーレをメンゲルベルクのリタルランドで終結している。この学殖の深い音楽的英知の塊がそういう結論を下したのは決して容易なも…
かつて『レコ芸』に、テンシュテットとマズアとがニューヨークで落ち合ってバーの一隅で対話したという対談が掲載された。貴重な資料である。マズアがニューヨーク・フィルの常任指揮者をしていた時期、テンシュテットも頻繁にアメリカ公演があった。ちょうど2人がニューヨークで遭遇したという貴重な時間があった。 マズア「それにしても俺たちはよくもまあ有名になれたよな」 テンシュテット「まあな」 とはいえ、マスア…
NHKFMに昔、音楽時評という番組があった。他に演劇と映画があった。ここ一カ月の音楽会を月遅れで総括批評する。 出演者は大木正興、野村光一、吉田秀和、遠山一行である。 今もって記憶に残るものが2つある。1つは、野村光一、吉田秀和、遠山一行の三人が出席した時のものだ。この時はどういうものか野村光一を吉田秀和と遠山一行が集中攻撃するのである。ある指揮者についての野村光一の批評が気に喰わなかった。つい…
NHKは2022・4・19にウクライナ避難民のインタビューで字幕改変をしたという指摘があった。「我々が勝利することを祈る。ウクライナに栄光あれ」を、「今は大変だけど平和になるように祈っている」と誤訳したらしい。今回またウクライナの戦争勝利をウクライナの平和に誤訳した。 「ウクライナに平和」のスローガンは戦争勝利の結果もたらされる平和なのだが、戦争に負ける平和もあることで、そう誤訳する。 というこ…